神社の敷地内にある大きな大きな木。
俺はその木が好きだった。
ガキだった頃。嫌なコトがあったりすると、その木の下に座り込んで空を見上げてた。
そうすると決まってアイツが迎えに来てくれたんだ。
「れお、帰ろ」って。
何があったかも聞かないで、ただ俺を迎えに来て手を差し出すんだ。
俺が立ち上がらないと、背中を向けてアイツも木の下に座り込むんだ。
アイツの背中見てると嫌なコトもどうでもよくなってきて、不思議と気分が落ち着いた。
その木も好きだったけど、その背中を見るのも好きだった。
そう、好きだったんだ。
今夜はグレープフルーツジュース。
皮を剥いて房を適当にざっくざく分けてジューサーに投げ入れスイッチを入れれば、静かだった台所が一気に騒がしくなる。
「お〜、爽やかな匂い」
汗をタオルで拭いながら、黒髪短髪ジャージ男がにかっと笑う。
「うちは給水所じゃねぇっつーの」
「夜ランの締めは、お前の手作りフレッシュジュース飲まないと終わった気がしないんだよ」
「じゃ、ずっと走ってろ」
「オーバーワークは禁物なんですけど」
「後で悟史宛に請求書送りつけてやる」
「大きい大会に出た時に、お前んちの店の名前を背負って走ってやるって言ってるだろ」
「それは喜ぶトコなのかよ」
「喜べって!全国ネットで宣伝出来るんだからさ」
何度繰り返したかわからないやりとりを、今晩も飽きもせずに繰り返してる。
母親に2、3回使われただけで放置されてたジューサーは、給水所になったおかげで大活躍。
俺もすっかりジュース作りの達人になりつつある。
本来俺は、他人に尽くすタイプの人間じゃないのに。
家が近所で同じ年。幼稚園から高校からずっと一緒。
苗字も永塚と仲手川だから、同じクラスになれば出席番号も前後。
顔を合わせるのが日常で当たり前な毎日。
でも今は高校三年の秋。
春になれば、その日常は大きく変わろうとしてる。
悟史……永塚悟史は、陸上に力を入れてる大学に推薦決定。
俺……仲手川玲音は、家業を継ぐために八百屋で修行決定。
こんなやりとりもあと何回出来るかっていうカウントダウン開始。
悟史の行く大学は県内だけど、陸上部は全寮制に入ることが規則になってるらしい。
門限もあるっていうから、こんな風に夜にうちにジュースを飲みに来ることもなくなるだろう。
そうすればこのジューサーもまた収納の奥に片付けられてしまうだろう。
ウィン…と、小さな音を立ててジューサーの動きが止まる。
「オラ、出来たぞ」
「サンキュ」
喉を鳴らしながら、うまそうにジュースを飲む悟史の姿に胸がキュっと軋む。
ガキの頃は同じくらいだった背丈が、いつの間にか見上げるくらいの身長差になった。
がっしりと筋肉がついた背中に抱きつけたらいいのに、なんて思ってしまう俺がココにいる。
……同じ男だっていうのに。
走る事だけで頭がいっぱいな陸上バカに、ただならぬ感情を抱いてしまった。
なんで?
どうして?
オンナノコの方がいいじゃん?
何度自分に問いかけたかわからない。
自分の気持ちなのにコントロールが効かない。
心の迷いだと思ってバンドに入って歌を歌ったり、女と遊んだりもしたけど、欲望は満たされても心は満たされなかった。
いろいろぐだぐだ悩んで考えても答はひとつしかなくて、それを否定するのも疲れたからやめた。
その答を修正する事なんて出来ないんだから。
「どうした、玲音?」
「ん〜…明日のライブの事考えてた」
「ガラにもなく緊張してんのか?」
「ばーか。緊張なんかすっかよ。苦手なMCの事考えてたんだよ」
「歯が浮くような台詞得意じゃん、お前」
「うっせ」
「だーいじょうぶ」
そう言いながら、大きな手が俺の髪をぐしゃぐしゃにする。
「玲音だったら出来るって」
時たま見せる兄貴面。
ガキの頃から何度もされてきた仕草。
あの時と違うのは、安心出来た仕草が胸を苦しくさせる仕草になったってこと。
苦しいのに、やめて欲しくない。
矛盾した思いはいつまで続くんだろう。
「いつまで弄ってんだよ」
「ジャンプー変えた?いつもと匂い違う」
くん、と鼻を寄せてくる悟史。
距離がまたぐんと近くなって、胸の苦しさを通り越して息苦しさを覚える。
「あ?あー…、自分の切らして姉貴の借りたからじゃね?」
声が上擦った気がするけど、鈍い悟史はこれくらいの変化くらいじゃ気付かない。
「そか。ねーさんのだったらいいや」
「んだよ、それ」
「また変なオンナのトコに行ってないならいいや、って事だよ」
「またとか言うな」
「遊ぶのも程々にしとけよ」
「お前は保護者か」
「保護者じゃねーけど、………心配なんだよ」
言うな。
お前が、言うな。
人の気持ち知らないくせに、そんな事言うんじゃねぇよ。
俺よりも走ることの方が大事なクセに、人の気持ちばっか揺さぶるな。
期待しそうになる俺が惨めだろ…?
悟史の手を振り払って、ジューサーを片付ける素振りをする。
「飲み終わったらさっさと帰れ。補導でもされてマグレで取れた推薦取り消されても知らねーぞ」
「お、もうそんな時間か」
距離が離れて、ようやく大きく息をつけた。
平静を装うのも容易じゃない。
「ごちそーさん。また明日な。学校サボんなよ」
「おー…」
立ち去る時も兄貴面ってか。
溜息吐く俺には気付かないまま、悟史は夜道を軽快に走り出す。
背中が遠くなって、闇に消えた。
−−−もし、俺がまた木の下で座り込んでたら、お前はどうする…?
何度繰り返したかわからない問いを、今夜もアイツの背中に向けて飛ばした。