■暗れ惑う日々

 


 神社の敷地内にある大きな大きな木。
 俺はその木が好きだった。
 ガキだった頃。嫌なコトがあったりすると、その木の下に座り込んで空を見上げてた。
 そうすると決まってアイツが迎えに来てくれたんだ。
 「れお、帰ろ」って。
 何があったかも聞かないで、ただ俺を迎えに来て手を差し出すんだ。
 俺が立ち上がらないと、背中を向けてアイツも木の下に座り込むんだ。
 アイツの背中見てると嫌なコトもどうでもよくなってきて、不思議と気分が落ち着いた。
 その木も好きだったけど、その背中を見るのも好きだった。
 そう、好きだったんだ。

 


  

 今夜はグレープフルーツジュース。
 皮を剥いて房を適当にざっくざく分けてジューサーに投げ入れスイッチを入れれば、静かだった台所が一気に騒がしくなる。
「お〜、爽やかな匂い」
 汗をタオルで拭いながら、黒髪短髪ジャージ男がにかっと笑う。
「うちは給水所じゃねぇっつーの」
「夜ランの締めは、お前の手作りフレッシュジュース飲まないと終わった気がしないんだよ」
「じゃ、ずっと走ってろ」
「オーバーワークは禁物なんですけど」
「後で悟史宛に請求書送りつけてやる」
「大きい大会に出た時に、お前んちの店の名前を背負って走ってやるって言ってるだろ」
「それは喜ぶトコなのかよ」
「喜べって!全国ネットで宣伝出来るんだからさ」
 何度繰り返したかわからないやりとりを、今晩も飽きもせずに繰り返してる。
 母親に2、3回使われただけで放置されてたジューサーは、給水所になったおかげで大活躍。
 俺もすっかりジュース作りの達人になりつつある。
 本来俺は、他人に尽くすタイプの人間じゃないのに。

 

 

 家が近所で同じ年。幼稚園から高校からずっと一緒。
 苗字も永塚と仲手川だから、同じクラスになれば出席番号も前後。
 顔を合わせるのが日常で当たり前な毎日。
 でも今は高校三年の秋。
 春になれば、その日常は大きく変わろうとしてる。

 

 


 
 悟史……永塚悟史は、陸上に力を入れてる大学に推薦決定。
 俺……仲手川玲音は、家業を継ぐために八百屋で修行決定。

 

 

 こんなやりとりもあと何回出来るかっていうカウントダウン開始。
 悟史の行く大学は県内だけど、陸上部は全寮制に入ることが規則になってるらしい。
 門限もあるっていうから、こんな風に夜にうちにジュースを飲みに来ることもなくなるだろう。
 そうすればこのジューサーもまた収納の奥に片付けられてしまうだろう。
 ウィン…と、小さな音を立ててジューサーの動きが止まる。
「オラ、出来たぞ」
「サンキュ」
 喉を鳴らしながら、うまそうにジュースを飲む悟史の姿に胸がキュっと軋む。
 ガキの頃は同じくらいだった背丈が、いつの間にか見上げるくらいの身長差になった。
 がっしりと筋肉がついた背中に抱きつけたらいいのに、なんて思ってしまう俺がココにいる。
 ……同じ男だっていうのに。

 


 


 走る事だけで頭がいっぱいな陸上バカに、ただならぬ感情を抱いてしまった。

 

 

 なんで?
 どうして?
 オンナノコの方がいいじゃん?
 何度自分に問いかけたかわからない。
 自分の気持ちなのにコントロールが効かない。
 心の迷いだと思ってバンドに入って歌を歌ったり、女と遊んだりもしたけど、欲望は満たされても心は満たされなかった。
 いろいろぐだぐだ悩んで考えても答はひとつしかなくて、それを否定するのも疲れたからやめた。
 その答を修正する事なんて出来ないんだから。 

 

 


 
「どうした、玲音?」
「ん〜…明日のライブの事考えてた」
「ガラにもなく緊張してんのか?」
「ばーか。緊張なんかすっかよ。苦手なMCの事考えてたんだよ」
「歯が浮くような台詞得意じゃん、お前」
「うっせ」
「だーいじょうぶ」
 そう言いながら、大きな手が俺の髪をぐしゃぐしゃにする。
「玲音だったら出来るって」
 時たま見せる兄貴面。
 ガキの頃から何度もされてきた仕草。 
 あの時と違うのは、安心出来た仕草が胸を苦しくさせる仕草になったってこと。
 苦しいのに、やめて欲しくない。
 矛盾した思いはいつまで続くんだろう。
「いつまで弄ってんだよ」
「ジャンプー変えた?いつもと匂い違う」
 くん、と鼻を寄せてくる悟史。
 距離がまたぐんと近くなって、胸の苦しさを通り越して息苦しさを覚える。
「あ?あー…、自分の切らして姉貴の借りたからじゃね?」
 声が上擦った気がするけど、鈍い悟史はこれくらいの変化くらいじゃ気付かない。
「そか。ねーさんのだったらいいや」
「んだよ、それ」
「また変なオンナのトコに行ってないならいいや、って事だよ」
「またとか言うな」
「遊ぶのも程々にしとけよ」
「お前は保護者か」
「保護者じゃねーけど、………心配なんだよ」

 

 

 言うな。
 お前が、言うな。
 人の気持ち知らないくせに、そんな事言うんじゃねぇよ。
 俺よりも走ることの方が大事なクセに、人の気持ちばっか揺さぶるな。
 期待しそうになる俺が惨めだろ…?

 

 

 悟史の手を振り払って、ジューサーを片付ける素振りをする。
「飲み終わったらさっさと帰れ。補導でもされてマグレで取れた推薦取り消されても知らねーぞ」
「お、もうそんな時間か」
 距離が離れて、ようやく大きく息をつけた。
 平静を装うのも容易じゃない。
「ごちそーさん。また明日な。学校サボんなよ」 
「おー…」
 立ち去る時も兄貴面ってか。
 溜息吐く俺には気付かないまま、悟史は夜道を軽快に走り出す。
 背中が遠くなって、闇に消えた。

 

 

 −−−もし、俺がまた木の下で座り込んでたら、お前はどうする…?  

 

 

 何度繰り返したかわからない問いを、今夜もアイツの背中に向けて飛ばした。

 

 

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