「大樹〜、駿くーん、ちょっと私たち出かけてくるからよろしくねー!」
「はいはい、いってらっしゃい」
「…あまり、飲みすぎるなよ」
「わかってます。行ってきま〜す」
バタンと勢いよくドアが閉まる。
週に一度、花の金曜日に、俺達の母親はこぞって近所の居酒屋に行く。
なんでもそれが二人の母親の唯一の楽しみだそうで、物分りのいい二人の息子は笑顔でお見送り。
あ〜なんて俺達って、母親思いなんだろ。
……まぁ、こういう状況を許していること事態、世間一般の息子よりもいい息子だと思うけどね。うんうん。
「なに、一人で納得してるんだ?オージュ」
もう一人の息子が濡れた髪を拭きながらやってきた。
風呂上がりでメガネしてないせいか、目つき悪いぞコイツ。
「ん〜、べっつにぃ。あ、駿。ミルクティ飲みたいな〜俺」
「自分で作れば?」
「駿が作ったほうが、数千倍おいしいんだもん。作って、作って♪」
「…わかった、わかった。ちょっと待ってろ」
「ラッキー♪」
駿はなんだかんだ言っても、俺の我儘を聞いてくれる。
人に甘えるのって、すごい好きだって最近気付いた。
ちょっと前までこんな事考えられなかったし、誰かに我儘言ってみたかったんだ。ずっと。
だから今、すっごく嬉しいんだ。
「氷はみっつね〜」
「わかってる。で、ガムシロたっぷりだろ?」
「そのとーりっ!」
すっごく、すっごく嬉しいんだ…
三ヶ月前。
まだ俺が中学三年の冬。高校受験を二週間後に控えたある日。
「大樹。父さんと母さん、別れるから」
珍しく三人で囲んだ食卓の空気が、一瞬にして固まった。
「大樹は、母さんの方に来るの。父さんがいなくても平気よね」
反論する間も与えられずに、二人は心を決めきっていた。
だいぶ前から、父さんは家に帰ってこなかったりしてたし。
母さんは母さんで、仕事の化粧品のセールスが忙しくて家事なんてやらなくなってたし。
俺は、いつも一人で家で御飯食べてたし。
……覚悟は、してたんだ。
今さら、どうでもよかったし。
『離婚届』にサインする二人を見ても、別に動揺するわけでもなく普通に受験勉強してた。
そして第一希望の県立佐川経済大学付属校に合格した頃には、すでに母子家庭が始まって、それなりに馴染んでた…ら。
またもや、自己中心的な母さんが勝手な事を言い出した。
「ね、大樹。来週引っ越すことにしたから」
さすがに俺の顔は引きつった。
だって“合格おめでとう”の言葉もなく、いきなり自分の考え押し付けられて。
無愛想になっちまうのも、当たり前だ。
でも、母さんは平然と話を続けてた。
「友達の神野魅夜。…魅夜もね、半年前に旦那さんを亡くしちゃってね。…まぁ、結論から言っちゃうと同居しないかって、話。魅夜んちね、二階建ての一戸建てなのよ。部屋も余ってるらしくってね。それで大樹が通う佐川高も近いし、それに向こうの息子も同じ年で同じ高校受かっててね。ま、兄弟みたいでいいかなーって」
俺は、何も考えずにOKした。
とにかく、どうでもよくなってた。
どうでも、よかった。
引っ越し当日。
ごく少しの手荷物を持って、神野家の門をくぐった。
「いらっしゃい、雪子、大樹君。待ってたわ」
出迎えてくれた魅夜さんは、母さんよりもずっと若く見えて、いわゆる美人だった。
「大樹君の部屋は、ここの二階よ。大きい荷物はうちの駿が運び終わった所だから、自由に使ってね」
「はぁ…」
俺はその時、一緒に住むもう一人の息子に対して同情してた。
こんなにも急に会った事もない母子が、突然同じ屋根の下で暮らす事になるんだぜ!?
もし文句とか言われたら、とてもじゃないけど言い返せない。
これからのことを考えると、深いため息ばかりついてた。
……けど、二階に上がるとその溜息は、感動の溜息に変わった。
わ、洋室。タタミじゃない。
しかも、ベットにベランダ。
目の前の部屋は、俺が長年憧れ続けた理想の部屋そのものだった。
前の家は市営住宅で、俺の部屋なんて物置もいいとこ。
この部屋は、まさに理想の『天国のスペース』だ。
「だいき、クン?」
「…あ、はいっ!」
感動に浸る俺の背後から、ハスキーな声。
振り返ると、とてもとても同じ年には見えない青年が立ってた。
目が切れ長で、フチなしのメガネが優等生っぽい。
髪はうすい茶色で、なんとなく全体的にハーフっぽい。
「よろしく、神野駿だ」
「あ…よろしく。俺…緒野大樹」
手を差し伸べられて軽く握手した後に、駿はこの家の配置の説明なんかをしてくれて、思ったよりツンケンしてない駿の態度に安心感を覚えてた。
文句どころか好意的な態度で接してもらって、正直拍子抜けした。
「…“だいき”って、感じでどう書くんだ?」
「ん?大きいの“大”に、樹木の“樹”」
「へぇ……」
駿はしばらく宙を見て考えてる様子だったけど、すぐに俺を見て笑った。
「じゃ、“オージュ”って呼ぶ」
「へ?」
今まで呼ばれた事のない呼ばれ方に戸惑ってると、駿はふっと笑った。
「なんか、“だいき”より“オージュ”って方が合ってる」
「はぁ…」
「よろしく、オージュ」
天使の微笑み、って。
こういう笑顔の事を言うんじゃないか…って、思った。
………スクワレ、タ。
そう感じた瞬間、涙が溢れた。
今まで隠れていた感情が一気に弾けだして、俺は駿に支えられて泣きに泣いた。
泣き終わる頃には、目が真っ赤に腫れてた。
「目が、リンゴの皮だな」
そう駿に言われて、大爆笑!
だって、普通『目がウサギ』とは言うけど、『目がリンゴの皮』なんて初めて聞いたよ。
笑いが収まった頃、もう一回しっかりと握手した。
それから、駿とはすぐに打ち解けた。
二人の母親は、『兄弟みたい』って安心してる。
もちろん、駿が『兄』で、俺が『弟』。
そう言われてしまうほど、駿は俺を甘えさせてくれて、俺も駿に甘えてしまっている。
きっと、しばらくはこの状況は変わらないだろう。
「明日の朝練、寝坊したら置いていくぞ」
「げ。駿〜、起こしてよ」
「たまには目覚ましで、自力で起きろ」
「俺、夢遊病だから、止めたままになっちゃうの」
「………六時にたたき起こすぞ」
「オッケー」
当分、変わらない、な。